ロバの引越し

思い出の引越し

3月13日引越しをした。11日の大震災があって、思い出に浸る暇もなかった。

前の家は約9年住んだ。その家はカメラマンを目指して上京した頃からの始まりの家になる。最初は兄が住んでいた。僕はその兄の家に居候する形で入ったのだ。でも、駅から約20分もかかり、二人暮しでは狭い家であったため、引越し当初はすぐに別の部屋を借りるからと言っていたのだが、そのままダラダラと住んでしまった。
結局のところ5年前に兄が結婚をし、兄の方が先に旅立つことになってしまったのだ。今までの家賃代から大きく値が上がり、先に引越しておけばよかったと後悔もした。でも、その当時はお金も無く、引越しの資金がなかったためそのまま引き継いで家賃を払うことにした。逆に兄が居なくなったこともあり、自立心が働き始めた僕は、生きるため、食べるため、家賃を払うために必死で働きだした。今までは何だかんだ言って兄に甘えていたのだった。とにかく、このままじゃ駄目だと思い始めた。のんびり夢を追いかけている場合ではないと感じたのだ。当時はカメラの仕事もあまりなかったので夜勤のバイトをし、写真の仕事がある時は寝ることも出来なかった。空いている日に営業へ行き、帰ってきて3時間ほど寝てバイトへ行く。そんな日々を過ごした記憶もある。バイト先では早めに上がれせてもらったりと沢山の迷惑をかけた。それでも、何とかやり過ごして運良く仕事も増え始めた。
今の自分は、周りの人々に支えられて来たからこそだと思っている。それは、これからも変わらないと思う。今まで支えてくれた人々、そして。これからまた支えてくれる人々へ感謝だけではなく、いつか結果も見せたいと思っている。今はただ、「ありがとう」ということしかできないが‥

新しい作品は家の近所を使うことが多かった。引越し当初から近所にある全てが僕にとって被写体であった。ボロボロの木造住宅地、空き地に捨ててあった不法投棄の粗大ごみ、毛並みの綺麗な野良猫達、近所で遊ぶ子供達。初めて出会ったときのように心の底から撮りたいと感じる被写体ばかりであった。そして、このブログの作品も近くにある動物公園が舞台になっている。
だが、いつの間にか風景も少しずつ変わっていった。木造住宅地がなくなり、新しい市営住宅が建ち、近所のボロアパートやネコが遊んでいた空き地も次々と建て変わっていった。最後は目の前の銭湯だった。夜になると、銭湯からの灯りが暖かく、水を流す音が聞こえていたが、その音や光もある日突然に消えていった。変わっていくのは風景だけではなかった。隣にある八百屋の店主は僕を見ると「聖徳太子に似てるね」と言っていた元気がいい小父さんだったが、その小父さんもいつの間にか会えなくなっていた。カンやゴミの分別に来ていたお婆さんも、ネコのエサをあげに毎日来ていた小母さんも、道路で寝そべっていた悪ガキ達も、いつの間にか居なくなっていった。成長という過程の中で、当たり前の風景は何一つ無いことに気づかされた。前に働いていた場所で読んだ誌が頭を過ぎる。「いつどこでどうなってかはわからないけど、全ては変わっていくだろう。希望は明日へすいよせられる。変化という包容力。さっぱりとしたいさぎよい毎日がはじまる。」これは銀色夏生さんの誌である。当たり前の風景の変化は当たり前のように忘れ去られてしまう。でもこれが変化という包容力なのかもしれない。

9年も住むと、マンションの中では一番の古株になっていた。近所の人々もだいたいが顔見知りになる。話した事は殆どないが、挨拶くらいはある。今度は僕がこの土地から居なくなる番になった。この些細な変化に一瞬でも誰かが気づいてくれたらとても嬉しく思うのだ。そして少しでも思い出に浸ってくれたら長い間住んだ甲斐があるってもんだ‥

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